「炎神戦隊ゴーオンジャー」の主演を務めた俳優の古原靖久(ふるはら やすひさ)さん。
高校を卒業するまで児童養護施設で暮らしていた過去を持っています。
その自身の経験をYouTubeや講演会などで発信しています。
そんな古原靖久さんの育った児童養護施設はどこなのでしょうか。
施設「聖友学園」でも虐待されていたなど、壮絶な生い立ちについても紹介します。
古原靖久の育った児童養護施設はどこ?
古原靖久さんが育った児童養護施設は東京・杉並区にある「聖友学園」です。
- 住所:東京都杉並区阿佐谷北3-28-19
- 施設長:若松弘樹
- 経営主体:社会福祉法人聖友ホーム
古原靖久さんは5歳から18歳までこの「聖友学園」で育ったそう。
現在の施設長・若松弘樹さんは、小学6年生と中学生の頃の担当職員だそうです。
古原靖久の生い立ちは?
古原靖久さんの生い立ちはこちらです。
- 京都で生まれる
- 4歳頃、両親が離婚
- 母親と二人で東京に引っ越す
- 5歳で児童養護施設に入る
母親が15歳の時に、古原靖久さんを妊娠したそう。
周りに反対され、駆け落ちして出産したようです。
インタビューではこのような記憶を語っていました。
一番古い記憶は3歳くらいのとき。両親と住んでいた家で、お父さんが飲んでいたビールの缶を、僕が倒してこぼしてしまったことがあったんです。そうしたらお父さんが「これを飲め」と言うので、僕は机の上のビールを飲まないといけなくて。
文春オンライン
3歳の子供にビールを飲ませるなんて、考えられないですね。
うちはお父さんとお母さんが2人とも夜の仕事だったのであまり家に帰って来なかったんです。そうすると、たまにおじいちゃんが遊びに来た時に、僕のおむつが何日も替えられていないことに気が付いたり。「おい、何日もおむつ替えてないじゃないか」と両親が叱られている姿を見た記憶があります。
文春オンライン
育児放棄(ネグレクト)のような環境で育ったようです。
両親が大声で喧嘩していたのも、すごく覚えているとのこと。
結婚生活は長く続かず、古原靖久さんが4歳くらいの時に両親が離婚しました。
その後、お母さんとふたりで東京で暮らしていたとのこと。
当時19歳だったお母さんは夜の仕事をしながらシングルマザーとして古原靖久さんを育てていました。
しかし、お母さんひとりで育児するのはかなり大変だったよう。
そして5歳の頃に児童養護施設に入りました。
お母さんは最初のほうはよく面会に来てくれていたそうですが、小学5年生のときに途絶えたそう。
子供ながらに、お母さんの生活が苦しかったことを分かっていたと語っていました。
お母さんと最後会った時に、次の約束をしないと不安だったという古原靖久さん。
「ポケモンの福袋買っておいてね」と言うと、お母さんは「うんわかった」と言いましたが、これが最後になったそうです。
ですが古原靖久さんは、お母さんに捨てられたという気持ちよりも「産んでくれてありがとう」という気持ちがあると語っていました。
学生の頃、まわりで堕胎する子などがいたことから、子供を産むことの大変さが分かったそうです。
児童養護施設で虐待されていた?
児童養護施設での生活も、大変だったようです。
怖い先生がいて、古原靖久さんは目を付けられていたとのこと。
- 理不尽な怒られ方をしたり、何かあると正座をさせられる
- 朝の8時から夜中の3時まで正座させられたことも
- 古原靖久さんだけ、自分で洗濯板を使って洗濯させられる
これは虐待と言えるのではないでしょうか。
その先生になぜ目を付けられたのかについては、こう話していました。
僕は間違っていることや理不尽なことで怒られた時に「ごめんなさい」と謝れなかったし、顔にも出てしまうんです。当時その養護施設では、「いかに先生に目を付けられないか」が重要で、先生たちからの指示に従うことができる子が勝つというか、生きやすい環境だったと思います。僕にはそれができなかったから、先生たちの間でずっと嫌われ続けていました
文春オンライン
他の子たちへの見せしめにしていたのではないかと話していました。
さらに、施設の先輩も怖かったとのこと。
- 友だち同士で殴り合わされる
- 言うことを聞かなければボコボコにされる
- エアガンで撃たれる
エアガンで撃たれた跡は、今でも鎖骨に残っているそうです。
小学6年生くらいまではかなり悲惨で、いい思い出がなかったとのこと。
そんな古原靖久さんの心の支えになっていたものは、漫画『ドラゴンボール』だったそうです。
このような辛い環境でも、しっかりした大人になった古原靖久さんは本当に凄いと思います。
週末里親制度
週末里親制度が、過酷な生活の中で息抜きになっていたそう。
小学3年生~6年生ぐらいまで行っていたそうです。
古原靖久さんが行った里親家庭はすごくいい方たちだったそう。
すごく自由にさせてくれて、いろいろなところへ連れて行ってくれたと話していました。
施設では、ずっと正座をさせられる日々を過ごしていたじゃないですか。先生の前で正座して、勉強する振りをして、みたいな。だから、施設の外へ出るだけで嬉しいわけです。そんな僕が、動物園に連れて行ってもらったりして、本当に楽しかった。
文春オンライン
動物園に連れていってもらったりしたことが、本当に嬉しかったようです。
里親家庭では人の優しさに触れることができて良かったと思います。
芸能界に入ったきっかけ
古原靖久さんが芸能界に入った理由は、養護施設を出たかったからだそう。
18歳のとき「就職か進学か決まっていないと卒園できない」と言われたとのこと。
もともと芸能事務所にスカウトされていた古原靖久さん。
芸能界に入りたかったわけじゃないけど、卒園したかったので事務所に入ったそうです。
それからすぐにのドラマ出演が決まりました。
- 『野ブタ。をプロデュース』で俳優デビュー
- 『炎神戦隊ゴーオンジャー』の主演を務める
現在は芸能事務所ハーキュリーズを退所し、フリーで活動しています。
本名で活動している理由は?
芸名ではなく、本名で芸能活動している古原靖久さん。
その理由はこちらです。
- お母さんに見つけてもらえるように
- 「生んでくれてありがとう」「元気にしてるんだよ」と伝えたかった
小学5年生以降会ってないお母さんですが、伝わっていたようです。
- 古原靖久さんの出演している番組をいつも見ていた
- 病気になり、病弱な身体で舞台挨拶も見に行っていた
古原靖久さんは、お母さんが2019年に他界したことを後から知ったそうです。
まとめ
今回は、俳優の古原靖久さんについてまとめました。
両親の育児放棄で5歳から児童養護施設「聖友学園」に入りました。
ですがそこでの生活も、虐待のようなものでした。
18歳で施設を出たかったため、芸能界に入ったとのことです。
現在は芸能活動をしながら、自身の経験を講演などで発信しています。
これからも、古原靖久さんの活躍を応援しています!